NAOBON’s diary

日々の心の発見を多くの人に伝えたく綴って居ります!

不完全愛から永遠愛への道のり

皆がこの世に生きる理由は、私には愛の勉強をしに来て居ると思えるのだ。
男女の愛も、親子の愛も、友情も隣人愛も、師弟間でも、どの愛もが、この不完全界では自己犠牲の形を取ったり、時には理による導きの時の裏付けの愛となって、私達の人生に魂からの喜びをもたらすであろう。












しかしこの不完全界での愛は、自己犠牲によるものが主流となって原動力と成りうる。だから苦しみを激しく伴い、人間は大いに迷いの中をさまよう宿命を背負う。














私もその一人で、自己犠牲愛を展開してはもがき抜いた。そのお陰で私はどんな闇にも突入する覚悟を持つ事が出来、闇を闇として向き合い逃げずに対処出来る様にもなった。















そしてそれと共に、どんな闇も必ず明けると言う確信にも通じ、全てを最後まで諦めずに解決する自負を持ち、神なる光の確信に導かれて、毎度全ての世の問題の解決を導ける様になった。















だから入り口と出口は掴んで居るのだが、最後にぶち当たった問題が、途中経過の苦悩についてだった。どんな闇にもぶつかり解決するのだが、途中経過が死ぬ程のたうち回り、皆に迷惑を掛け捲って居たのだ。














どうしてそうなるのか?それは皆を信じられて居なかったからだと解った。「皆はどうせ私を信じてなど居ないだろう?」と皆を疑って居る私が居たのだ。皆を信じるには、この理不尽な闇を投げ付けられる社会の中で、それでも「貴方を愛していますよ」と皆に愛を投げ返す強さが要求されるのだ。
















どんなに酷い目に遭っても遭っても、それでも愛に立ち返れる強さは、神に匹敵する愛の強さである。たとえ自分が殺されてもその相手を愛せるか、ぐらいの強さである。いや、殺される事は現実の話では無くて、心でそれくらいの覚悟を持てるかどうかの、「心の中の話」である。















この部分をクリアすると、本物の自己犠牲愛の完成である。あまりの酷い理不尽な仕打ちに誰も信じられなくなり、他人が自分を愛して居る訳が無い、そんな他人を自分も愛せない、愛せる訳が無いと、ドツボに填まる、その落とし穴からどう這い上がりクリアするか、だったのである。















全ての問題に向き合い、最後の愛を絞り出し他者をそれでもと信じ愛し抜き、ニコニコ笑いながら解決し続け、そして必ずの不動愛へと全てを導き抜く。これしか道は無かったのでは無いかと思うのである。














最初に「勇気」でぶつかり、「信頼」で走り続け、「真心」で信念を貫き、「最後の愛」に辿り着く。この一連の過程によって、私達は永遠の愛にすら辿り着く事が出来たのでは無いかと思う。













「全ての問題は解決する」
そして闇が全て払拭される時、私達の心の中に神が宿り、神が最後までの道のりを約束し、私達を照らし続けるだろう。ちなみに私はここまでの道のりを最後まで自分の経験として、この世で展開して来られた。だからこのブログでも今まで、自分の存在を「神界からの来訪者」の様に申して来た次第なのである。
















信じられないのなら無理に信じなくて良い。唯、今はここ現世の地球人達がレベルが幼く、神への理解が伴わない状態で生命を持続させて居るものだから、苦しみをはね除けるだけで精一杯な様である。正しく理解すれば、皆がみんな、同じ様に希望なる神界へ入る事だってすら可能な事ではあるが、信じられない事が、いつでも全てを阻む事は言うまでも無い。














他者を信じる事は、愛にとって必要必須事項であった事は、今回のこのブログを記しながら、私も勉強になった。信じない事から全ての苦しみは引き起こされる。他者の光を信じ、光への私達の道を信じ、神なる永遠の光を信じる事、それ無くしては、私達が救われる事や永遠の愛への道のりは約束されないだろう。