現実が苦しい理由
最近の私はいつも身体がどこかチクチクと痛い。誰かにつつかれて居る様だ。私は「完全者」と言うジャンルの人間なので、皆と言う「不完全者」(=不完全界を生きる覚悟を決めた者)にしょっちゅう刺激を与えられて居る様な思いがする。なぜ刺激が来るかは後で説明するとして、先ず最初に「完全者」と「不完全者」について少し言及したいと思う。
私は自分が「完全者」だと申した。これは私が完全な愛を掴んで居るからであり、今はまだ誰にも真似出来ない意識を自覚する事が出来たと思って居る。完全者は不完全な現実世界には生きられないと諦めていた私だったのだが、つい今さっき解った事があり綴ろうと思う。
完全者を目指す多くの人間達が時にニートや障害者などと呼ばれ苦しみ続ける理由が解ったのだ。実はこの現実世界は結果や形ばかりに光を展開しようとするものだから、最後の心(=真心、愛)が抜け落ちてしまって居ても、形が整うと他者の目を誤魔化す事が出来る。だから「結果や形」先行になってしまい、心が込もって居なくても皆を一瞬のマヤカシで喜ばす事が出来る。だからパッパと結果を出す人間が重宝される世の中になって居る。
でもそれらは「一過性の価値」としてしか機能出来ない。だからいつまで経っても誰も本当の満足を手に入れられないで、心から救われる者の居ない世の中、現実社会になってしまって居る。皆はエゴが強い人間で繋がり合い、この社会を構築して居るから、救われて居ない実態にすら気付けず、唯々社会生活を毎日送るだけに追われ、何も考えずに一生を終える人間も少なくない。
私と言う完全者が苦しかったのは、この不完全世界が一過性の価値に染まり切り、本物の愛が邪険にされ、私の真心がこの現実社会にリンク出来なかったからである。なぜリンク出来ないかと言えば、そもそも不完全界とは、形や結果しか尊重されず、そう言うものを愛する人間達でこの世界が構成されて居るから、この世界では何を表現しても、受け手は皆、エゴマミレの不完全者達であるため、完全者は真心も愛も受け止められる事は無いのである。
つまり光や希望は幾ら表現されてもされても、この社会では、誰も受け手が居ない事になる。だからこのブログにも読み手すら一名も居ない現実なのである。でも私はもう悲しまない。だって私は正しかったのだ。それはもう解って居る。だから他者が付いて来れなくたって、自分が愚かだとか、自分が間違って居るからだなんて、もう思わない。だから自分は自分を完全者だと申す自信すらあるのだ。
今度は逆に視点を変えてみよう。もし、そんな不完全なる現実社会にリンクしたいと思うならばだ。私の様な完全者でもリンクが叶わない訳ではないと理屈上では説明出来る。それは、不完全界にはエゴがまみれて居るからこそ、自分が不完全者になれば良いと言うだけの事なのだ。この世で現実に形や結果を出すためには、エゴ、すなわち、楽しみながら結果を出す事で、皆は付いて来るのだ。不完全界の表現や仕事には、必ず投げ手と受け手が居るもの。なれば、受け手さえ納得すればそれは賛同を得られ、素晴らしい結果となる。
どんなに頑張っても頑張っても、結果が出ないと言う可哀想な人間がよく居る。それは単に苦しみながら頑張って居るからなだけであり、その時も心の中には価値は積み上げられて居るのだが、現実の結果になって居ないだけである。だからもし結果に拘るなら、受け手に受け入れられないとそれは結果に繋がらない事になる。残念だが、この世は群れ合いの社会だから、どんなに独り素晴らしい理念や愛を唱えても、受け手から遠ければ誰にも届かない事になる。今の私の様にー。
それに加え不完全界への愛もないと、不完全界は拒否反応ばかり示す事になる。私みたいに「光だ、光だ」ばかり言って居ても独りぼっちになるばかりで、誰にも何一つ届かない事になってしまう。でも私は既に完全者なので、もう現実社会=不完全界には戻れないだろう、心からは。だから完全愛を心に抱えながら、現実に合わせたフリをして、生き辛い人生をこの社会の中、生きて行かないといけない。
独りぼっちには慣れて来た私だし、でも別に皆の中に戻りたくない私でも無い。だけど、私の生き方や在り方は段々固定化して来ている。もちろん、完全者として。私は不完全愛(不完全を許し愛する心)が無い訳でも無い筈なのに、あまり不完全界は得意では無いのだ。これが皆との決定的な違いだ。私は完全をやって居るほうが楽なのだ。子供の頃からこんな自分だったけれど隠す様に生きて来た様に思う。皆に合わせるのは苦手でもなかった昔だったけれど、年齢と共に社会に出られない程、段々皆の様な生き方が苦しくなって行くのを覚え、未だに社会を生きて行く事、と言うより外を歩く事すら魂(こころ)から苦しい想いだ。
別に私は私で良いのだと思う。だけど来年から町内会やらの活動が増えるので、私は少し皆に合わせる必要もあるのかなと思う。でもそれは今までの様に無理矢理みんなのエゴに合わせるのでは無くて、私もエゴのフリとして、やりたい様に少しワガママに振る舞ってみようかなと思うのだ。心から楽しむ自分で居られて居るか、チェックしながら進む現実にしたいと思う。
本当はね、現実がもう少し、理想や夢を語る人間を追い出さないような社会にならないとね、とは思う。だけど仕方無いね、これが今現在の社会だものね。私はこれからも『真心』を大事に、最後まで諦めない『永遠の愛』を魂の中に抱き続け、頑張って行こうと思う。これからも私は闇や悲しみに負けない!希望だけが友達さ!笑
因みに、冒頭に書いた「チクチク痛い」のは、完全者の私に対する挑戦が痛みの源である。だから私は完全を掴めず、私の世界とリンク出来ないで居る人間達の心を粗末にしない様に、現実にも心をリンクさせたり、完全者としての自覚を持ちながらも皆の与える刺激にも応える様に、完全界への抜け道も示しながら、一人一人との関わりも愛して行ける様になれればな思う。
現実が苦しい理由、それは希望や理想が勝てない社会だからに他ならない。でもそれは自分独りで幾らでも改善、開拓、解明して行ける。私も独りでいつも苦しみの理由を解明してここまで来れた。全ては心次第であるなと思う。光や希望はどこまでもそれそのものでしか無いから、幾ら他者が闇から足を引っ張って来ようとも、自分次第なのだ。闇が辛いなら、最早独りで生きる覚悟も辞さない私も居る。迷いや煩悩は誰にでも在るが、振り回されるのも本来は自分の意志なのだから、私達はいつ何時も、自分の人生や魂に責任を持って生きたいものだと思う。
私達が苦しいのは、光がしょっちゅう隠れる瞬間を迎えるからだ。光を掴んで置く事すら、自分の責任だったのだなとつくづく思う。現実は心の修行の為にあると私は思うから、私は心の存在を現実以上に大切にして来た。心さえ万全・磐石なら怖いものは無いと私なら思う。完全は心に住み、その完全なる心はどんな現実も変えて行ける力を持つもの。心が先に在りき。心さえ鍛えて行けば、自ずと世界は必ず回り行くと私は心得て居る。心に完全愛を持つ者は永遠に笑う。全てが愛に還るからだ。(終わり)
神一色に染まる直前日記
私には核の世界と言うものがあるのだが、世の中には核を掴んで居る人間は非常に少ない。私が知って居るだけでは2人しか居ない。核を知る者は、普遍性や永遠性にまで到達して居る。だけど普通の人間は何かへの依存によって誤魔化して生きて居るものだから、核の存在などには到底至る事も無いままに、地獄の様な苦悩を背負い続ける事になる。
私みたいな精神障害者の様な肩書き(看板)を持つ者の中には、健常者にも増して核を掴みづらく、いつも表層界をさまよい他人に影響ばかり受けて振り回されて苦悩する人達も多い。私も数年前まではその口だった。だけど旦那さんとの出逢いや若い頃のカウンセラーとの出逢いにより、自分自身でも模索し続け、核を掴む事に成功した。
私も表面をさまよい続けて居たから、核は掴み辛かったのだが、逃げずに一つ一つ問題や苦悩と向き合ったら、ちゃんと振り回されぬ普遍性は心に抱く事が出来る様になった。この私の様に表面が荒れ果て捲っての核との出逢いを果たす人間は、他者の痛みに敏感な側面を持つため、自分が核を掴むだけでなく、他者の事も核の世界へ引っ張り上げられる性質を持つと言う特徴がある。
だからそんな私は、表面を未だに大事にしながら、核の世界を見つめたりして居るのだが、なかなか核の世界に染まるだけをしようとはやっぱりしない。やはり表面をさまよう癖を忘れない様にしながら、周りに意識を向けながらの努力の日々となって居る。世の中のどの人にも核は存在するのだが、皆は深すぎるその世界があまりに果てしなく感じるために、現実の表面世界に流され、核を意識する事すら諦めてしまって居る人達で溢れ返って居る。
何度でも言うが、皆にも普遍性まで到達する世界は在るのに、諦めてしまって居る。たとえば「愛する事の大切さ」や「真心で頑張ること」とか、ふと胸に手を当てれば誰にでも解る事なのだが、皆はその『本質世界』を現す前に、表面での叩きのめし合いに希望をヤられてしまい、立ち上がる事を忘れてしまって居るのだ。当たり前が当たり前と分からなくなってしまって居るのだ。
だから表面でのジタバタに疲れ、いつしか希望すら諦めてしまい、もがくのを辞めて流されて行ってしまう。それだけ核を自覚したり掴む事は大変な作業であって、誰にでも出来る事では無いどころか、殆ど全員が忘れしまって居る。表面で核世界の愛し合うだとか他者を大事にだとかを展開すると、この世は何故か袋叩きに遭ってしまう。だから皆は心の中に愛や真心をしまいこんでしまい、二度と呼び起こさずに死を迎えてしまう。そう、死とは希望の欠落からだんだん堕ちて行く世界なのだ。だから希望を馬鹿にしては怖い事なのだが、気付いて居る者は殆ど居ない筈だ。
表面でも、核の愛や光を展開すべくもがき続ける事は、辛くて辛くて死にそうになるから、普通の人間にはお勧め出来ない。私はその世界を走り抜いてしまったので「皆も核を表面へ引っ張り出して来い」なんて強制はもはや望まない。皆は表面があまりに辛すぎて表面で悪さをしたり、他者の足を引っ張って邪魔をする者まで居たりする。そんな失望者が希望者の愛や光を食い物にして、やりたい放題になるのも、甘えから起こって居る。
他者の希望を邪魔する資格がある者など誰も居ない。その者がどれだけ皆を思い遣り、全体の幸せだけを考えて居るかなど、他者を邪魔するレベルの者になど到底理解など出来ないだろう。自分が失望を抱いて脱落したからと言って他者の光を停める権利は誰にも無いのだと気付く事が出来る者も居らず、可哀想だが、自分の闇を他人のせいにして居るうちは、他者の本物の光や愛にだって気付ける者は居ないだろう。自分が不幸な人間に限って、他者との境界線を曖昧にしてしまい、他者の幸福を妬み、貶める事でしか喜びを抱けぬ様になるのだ。本当に可哀想な現実だ。
愛や光はちゃんと存在する。心をクリアにして研ぎ澄ませば自ずと見えて来るのが、核の世界や希望の光である。だがそれを諦める者が表面でのさばって悪さをするのは戴けない。苦しいなら核を掴んだ者から光への進み方を学ぶなり、模索を続けて諦めぬべきだ。私はその為なら、幾らでも協力したいと思うのだ。核を立ち上げるのが辛いなら、悪さをせずにジッと闇が明けるのを賢くまつべきだ。その為なら私は自分が核を表層まで引っ張り出して来て、皆をちゃんと光で包みたいと思う。これは私の力などでは無くて、それこそ『神の愛』の力なのだ。
私はここまで逃げなかった。だから最後まで走り抜きたいと思う。いや、私には後ろに引き下がる道は用意されて居ない筈だ。結局、私はどんなに辛くても最後まで完走してしまう自分しか知らないのだ。表面と核との合致を図ること、それはありとあらゆる神以外の世界が神によって包まれる事を意味する。私は表層部は色々駆使してここまで走って来たので、色々な世界をさまよいながらもこれらの世界を神一色に染める準備は出来て来た筈だ。あとは、唯、光の到来を待つだけである。ここからが正念場であり、楽しみな時節(とき)の到来である。
「永遠完全界よ、こんにちは!」
皆の居る世界は、とりあえず「永遠ならざる世界」である。その世界の下には不完全界と完全界がある。そして不完全界の下には「不完全愛」と「永遠理」とがある。
そもそもの大元が「永遠ならざる世界」なので、たとえ完全界に生きようと不完全界に生きようと、それはとても苦しいものとなる。たとえば「完全界」だとオンリーワンを主張してみても、エゴとエゴのぶつかり合いにもがき苦しむ事になる。そして「不完全界」だと、その下にある「永遠理」は誰かのせいにしてグルグル思考ばかりが回り、「不完全愛」だと一度誰かのせいにしてから、共に進もうとして背負い返すものだから、どちらも他者の存在が「自立した自分」を確立出来ないままに、依存の対象になってしまって居る。
「永遠ならざる世界」の「不完全界」では、ワンネスを目指しての依存が見られる。そして逆に「完全界」ではオンリーワンを目指しての自立は見られるものの、「個」を確立してしまうものだから、他存在との衝突を避けられない。
「永遠ならざる世界」では、ワンネスもオンリーワンも他者との関係性に於いて、問題ばかりをはらんでしまう。そこで浮上して来るのが、「永遠なる世界」なのだ。永遠界では、幾ら他者に尽くし理で解明したり愛に生きたりしても、それは「不完全界」要素を含むので、誰もが信頼して付いて来るなどと言う事はあり得ない。
そこで永遠界に於いて極めて有効になって来るのが、「完全界」である。これは個として自立するオンリーワンを目指す世界なのだが、ワンネスの要素を含むのだ。全体の統率や一つの集合体を意識しながら、各々が自立して生きる世界。ワガママではない愛の世界を用意しながらの自立の世界だ。
だからワンネスと言う不完全界に属す世界と、オンリーワンと言う完全界に属す世界の良いトコ取りをした在り方、これが「永遠界」では可能になるのだ。ではそもそも、永遠界とは何の事を言うのか?
永遠とは「永遠に諦めない心を持つ世界」と言い換えられようか。神は全智全能である。その神に私達は永遠に成れない。だけど諦めない事だけは出来る。その全智全能を目指す永遠の闘いこそが、私達を永遠に神なる世界に近付けて行ける原動力になりうるのだ。神を諦め遠ざけるから、いつまでも他者に依存したり、他者と衝突したり、私達と言う存在同士ですら愛し合えない。
神を近くに感じ、神との合致を図るべく、永遠に神に心をリンクさせ、疑いもせず希望の光に包まれ切るとき、私達は一個の自立した魂として、永遠の愛や光と一体化するのである。「永遠」とは神の前の民として「永遠に諦めない」と言う意味と、「神が『永遠』である」と言う意味での二つがある。永遠完全界に入る事は理屈上無理では無くなった。あとは皆一人一人がどれだけこの世界を信じ、自分のものにして行けるかだけである。
神の前での私達の在り方、如何や?
私達の中には二つの気質がある様な気がする。一つは「オンリーワン」を目指す個々を大事にする性質である。そしてもう一つは「ワンネス」と言う性質で、これは我々は本来一つであり、個やエゴを棄て神なる光の元に一つに集結するのが、私達の本来の姿であると言う在り方だ。
よくオンリーワンを叫ぶ人間は、逆に個を愛する者同士で集結し、ワンネスの大切さを学んで居る事が多い様に私は感じる。そしてワンネスを叫ぶ人間はその反対で、一つになろうと無理に頑張るから、この不完全世界で異端視され、孤立しながらの苦戦を強いられ、結局、人間は個であったと気付かされ、独りで自立する在り方を習得する傾向がある様に思う。
私などは、ワンネスを叫んでの孤立派である。因みに私の旦那さんは逆にオンリーワンを叫んでは和に生きるタイプだ。私達は真逆なので、関係性はチグハグで、私はよく旦那さんから色々学ばされて居る。私から教えようとしても、オンリーワンが元々得意な彼だから、個としての主張が強く、私のワンネスを求める心を理解しない。とかく社会に於いても、個として自立をして生きる人間が多い社会の為、ワンネス派はやはり孤立し、意見が通らず、オンリーワン派の強い影響を受け、個の確立に傾き勝ちになる事もある。
その中で、私の友達や若い頃お世話になったカウンセラーなどは、ワンネスもオンリーワンも両方大事にするタイプである。結局、神に忠実に生きるならワンネスで神の元に一致団結して集結だし、永遠に私達は「個である事を避けられない」事実に則すなら、神に対し謙虚に、永遠に個を自覚し、多少ワガママでも個として神に許されのびのび生きるのも、確かに一つの手なのである。
だから別に彼らの様にバランスを取る事にも頷ける私なのだ。神はどちらも許して居るのなら、確かにどちらの道も正当化されるから、バランスを取って居る者が一番賢い様な気もするのだ。どの道を生きるかは一人一人次第なのかも知れない。
しかし、私ならやはり「ワンネス」派が一番かも知れないなと思う。ワンネスが心地好いと言うのもあるかも知れない。一つになった方が皆が幸せになれる気がするのだ。バラバラの個性も良いけれど、神の光の中で互いを尊重しあった方が、永遠に幸福が持続する様な気がするのだ。それは多分私が、全ての闘いを終えた世界から来て居るから解って居る事なのだろう。
私はオンリーワンの個性尊重でも、個と集結のバランスを取っても、そしてワンネスだけに生きてもどれでも良いとは思う。唯、一番効率が良いのが、永遠界にまで到達する「ワンネス」だったのでは無いかなと思う。個としての存在に生きる時、人間はどうしてもエゴと言う必ず朽ちる「限界」との出会いを経験する。そして個としての自分では、最後まで限界との格闘が続き、神との出逢いに至れずもがき苦しみ続ける事になる。
愛とは本来、永遠であり、永続して行ける。だから神との合致や神から投げられる事により頂ける愛はどこまでも無限であり、永遠に神と合致し続ける事でその個の存在は永遠に神なる「永遠愛」の中で生きて行けるのだ。私達は神を自分の中に戴き、神と共に輝く事で、全ての存在の未来永劫の希望と光が約束されるのである。だから皆が一人一人、個で生きるよりワンネスを目指した方が、道はより確実だったと思うのだ。
不完全愛で終わらない私達の希望~永遠の光へ~
男女の愛も、隣人や友人への自己犠牲愛も、それ自体が報われなくて悲しいと言う事は実は無い。男女の愛に走る理由も、自己犠牲愛に走る理由も、全ては完全なる愛が叶わない事から発生する。
完全愛が叶えば、私達は不完全愛に逃げる必要が無いのである。しかしながら、この不完全界では愛が必ず形に頼り、エゴにまみれたものになる事から、心の中の完全愛が不完全愛へと形を取って現れる。完全愛に生きられさえすれば、私達はエゴの愛で苦しまなくても済む様になる。
不完全愛が叶わないから苦しいと思い込んで居た私達も、実は完全愛の叶わない理不尽さに耐えられず、自己犠牲愛や男女の愛にすがって、愛の幻を追い求めて居たのである。では完全愛とは何か?
それは神なる完全愛の事を言うのだ。私達は神を目指しては完全であろうと苦しんで来たのだ。そして私達は完全になり切れないこの現実に観念し、不完全界に生きる覚悟を持つ様になる。これが大人や社会人になると言う意味である。
実は完全は心の中に存在し、神も私達人間の心の中に住んで居るのである。だから心をクリアにし、神を心の中に出現させ、常に神とリンクし続ける事で、生きて人間で在りながら神の意志を受け止めて他者を愛する完全愛に生きたり、神の御心と意思のままに自分を進める事が出来る様になる。
私達の社会は完全愛に生きる事を諦めて居る人間だらけだが、確かに社会での繋がりでは、人間と言う不完全者同士の繋がりだから、不完全愛しか展開出来ないのでは無いかと思われ勝ちである。でも人間同士で不完全だからと不安で群れ合って居ても、誰も本物の希望や光へ旅立て無い。
辛いからこそ、群れ合いで誤魔化さずに、本当の答えを模索し、答えを掴む勇気を持ちたいものである。「神は確かに存在する」、私はそう断言する。私がこんな事を言えるのも、神と確かに心の中で出逢い、神からの意志を頂き、言葉に代えて紡げて居るからである。
独りぼっちを恐れない事も必要だ。孤独の果てにいつも神は見守って居てくださるもの。人間の不完全性に傷付き疲れ果てた時、徹底的に闘い、心の中の不快な闇を払い除ける努力を積む事で、私達は晴れ渡る心の中に永遠に朽ちない希望の光=神を見る事が出来る筈である。
不完全愛から永遠愛への道のり
皆がこの世に生きる理由は、私には愛の勉強をしに来て居ると思えるのだ。
男女の愛も、親子の愛も、友情も隣人愛も、師弟間でも、どの愛もが、この不完全界では自己犠牲の形を取ったり、時には理による導きの時の裏付けの愛となって、私達の人生に魂からの喜びをもたらすであろう。
しかしこの不完全界での愛は、自己犠牲によるものが主流となって原動力と成りうる。だから苦しみを激しく伴い、人間は大いに迷いの中をさまよう宿命を背負う。
私もその一人で、自己犠牲愛を展開してはもがき抜いた。そのお陰で私はどんな闇にも突入する覚悟を持つ事が出来、闇を闇として向き合い逃げずに対処出来る様にもなった。
そしてそれと共に、どんな闇も必ず明けると言う確信にも通じ、全てを最後まで諦めずに解決する自負を持ち、神なる光の確信に導かれて、毎度全ての世の問題の解決を導ける様になった。
だから入り口と出口は掴んで居るのだが、最後にぶち当たった問題が、途中経過の苦悩についてだった。どんな闇にもぶつかり解決するのだが、途中経過が死ぬ程のたうち回り、皆に迷惑を掛け捲って居たのだ。
どうしてそうなるのか?それは皆を信じられて居なかったからだと解った。「皆はどうせ私を信じてなど居ないだろう?」と皆を疑って居る私が居たのだ。皆を信じるには、この理不尽な闇を投げ付けられる社会の中で、それでも「貴方を愛していますよ」と皆に愛を投げ返す強さが要求されるのだ。
どんなに酷い目に遭っても遭っても、それでも愛に立ち返れる強さは、神に匹敵する愛の強さである。たとえ自分が殺されてもその相手を愛せるか、ぐらいの強さである。いや、殺される事は現実の話では無くて、心でそれくらいの覚悟を持てるかどうかの、「心の中の話」である。
この部分をクリアすると、本物の自己犠牲愛の完成である。あまりの酷い理不尽な仕打ちに誰も信じられなくなり、他人が自分を愛して居る訳が無い、そんな他人を自分も愛せない、愛せる訳が無いと、ドツボに填まる、その落とし穴からどう這い上がりクリアするか、だったのである。
全ての問題に向き合い、最後の愛を絞り出し他者をそれでもと信じ愛し抜き、ニコニコ笑いながら解決し続け、そして必ずの不動愛へと全てを導き抜く。これしか道は無かったのでは無いかと思うのである。
最初に「勇気」でぶつかり、「信頼」で走り続け、「真心」で信念を貫き、「最後の愛」に辿り着く。この一連の過程によって、私達は永遠の愛にすら辿り着く事が出来たのでは無いかと思う。
「全ての問題は解決する」
そして闇が全て払拭される時、私達の心の中に神が宿り、神が最後までの道のりを約束し、私達を照らし続けるだろう。ちなみに私はここまでの道のりを最後まで自分の経験として、この世で展開して来られた。だからこのブログでも今まで、自分の存在を「神界からの来訪者」の様に申して来た次第なのである。
信じられないのなら無理に信じなくて良い。唯、今はここ現世の地球人達がレベルが幼く、神への理解が伴わない状態で生命を持続させて居るものだから、苦しみをはね除けるだけで精一杯な様である。正しく理解すれば、皆がみんな、同じ様に希望なる神界へ入る事だってすら可能な事ではあるが、信じられない事が、いつでも全てを阻む事は言うまでも無い。
他者を信じる事は、愛にとって必要必須事項であった事は、今回のこのブログを記しながら、私も勉強になった。信じない事から全ての苦しみは引き起こされる。他者の光を信じ、光への私達の道を信じ、神なる永遠の光を信じる事、それ無くしては、私達が救われる事や永遠の愛への道のりは約束されないだろう。
~これから覚醒を進め行く私への指針~
① 心と表面なら心を重視し、添え物として現実的表面と関わる。
② 言葉に代えて永遠に解明し続ける完全理も、不完全界の産物であるから、ホドホドにする。
③ でも言葉による解明などを通して、覚醒は進めて行かなくてはならない。
④ やがて覚醒の度合いが進むと、意識が希望オンリーの神なる光世界への確信だけに変わるであろう。
今のところの私の中の最先端情報はここまでである。
人間は普通に人間らしく生き、存在して居るので、私の様な存在は周りとの異(ちが)いに翻弄される事ばかりだが、自分が人間では無かったと、魂の中身の異(ちが)いに素直に忠実に生きる事しか道は無い様である。
他者の質が悪いとかでは無い。他者は私と質が異なるのだとしっかり認識しなければいけない。特殊な私だったからこそ解る事がやまほどある。
自分が身体を持った意味では、形としては人間ではあったのだが、心や魂と言う中身の意味で人間では無かったのだから、形よりも中身で全てが決まるこの存在界に於いて、私が人間では居られず苦しみ抜くのは当たり前だったと理解しなくてはならない。
トコトン独りぼっちであったと覚悟しなくては、この性質でこの世を生きて行く事は困難である。誰かと闘うと言うよりは、自分の異質性を自己認識して自分の中に秘めて置いた方が賢いだろう。
愛し合う事は同じ質でないと困難であろう。神なる愛を心得て居ても、この人間界では通用しないとほぼほぼ理解して置いて間違い無いだろう。
仲良い人間が多少出来たとしても、その者が人間であった事を忘れてはならない。永遠に自分が独りであった事を深く強く認識し続けるべきである。
この世は私にも修行の場である。でも自分の魂を高めるのに他者を巻き添えにしなくても良いのだ。私が皆から刺激を受け止め、それを自分の問題に切り替え、自分で解明し、自分が成長し、前進し続けるだけである。
誰かが私のせいにしたと感じても、私はそれを受け止め成長の糧に変えられる術を心得て居るのだから、その流れが来るのは当然である。
他者をこの野郎と思ったり、独りで寂しいから誰かを巻き添えにしようとか思ったりはしなくて良いのである。
全ては私の魂の修行の為にあると心得て、全てにぶつかって行く心を持ち続ける事である。