NAOBON’s diary

日々の心の発見を多くの人に伝えたく綴って居ります!

現実が苦しい理由

最近の私はいつも身体がどこかチクチクと痛い。誰かにつつかれて居る様だ。私は「完全者」と言うジャンルの人間なので、皆と言う「不完全者」(=不完全界を生きる覚悟を決めた者)にしょっちゅう刺激を与えられて居る様な思いがする。なぜ刺激が来るかは後で説明するとして、先ず最初に「完全者」と「不完全者」について少し言及したいと思う。
















私は自分が「完全者」だと申した。これは私が完全な愛を掴んで居るからであり、今はまだ誰にも真似出来ない意識を自覚する事が出来たと思って居る。完全者は不完全な現実世界には生きられないと諦めていた私だったのだが、つい今さっき解った事があり綴ろうと思う。
















完全者を目指す多くの人間達が時にニートや障害者などと呼ばれ苦しみ続ける理由が解ったのだ。実はこの現実世界は結果や形ばかりに光を展開しようとするものだから、最後の心(=真心、愛)が抜け落ちてしまって居ても、形が整うと他者の目を誤魔化す事が出来る。だから「結果や形」先行になってしまい、心が込もって居なくても皆を一瞬のマヤカシで喜ばす事が出来る。だからパッパと結果を出す人間が重宝される世の中になって居る。














でもそれらは「一過性の価値」としてしか機能出来ない。だからいつまで経っても誰も本当の満足を手に入れられないで、心から救われる者の居ない世の中、現実社会になってしまって居る。皆はエゴが強い人間で繋がり合い、この社会を構築して居るから、救われて居ない実態にすら気付けず、唯々社会生活を毎日送るだけに追われ、何も考えずに一生を終える人間も少なくない。
















私と言う完全者が苦しかったのは、この不完全世界が一過性の価値に染まり切り、本物の愛が邪険にされ、私の真心がこの現実社会にリンク出来なかったからである。なぜリンク出来ないかと言えば、そもそも不完全界とは、形や結果しか尊重されず、そう言うものを愛する人間達でこの世界が構成されて居るから、この世界では何を表現しても、受け手は皆、エゴマミレの不完全者達であるため、完全者は真心も愛も受け止められる事は無いのである。













つまり光や希望は幾ら表現されてもされても、この社会では、誰も受け手が居ない事になる。だからこのブログにも読み手すら一名も居ない現実なのである。でも私はもう悲しまない。だって私は正しかったのだ。それはもう解って居る。だから他者が付いて来れなくたって、自分が愚かだとか、自分が間違って居るからだなんて、もう思わない。だから自分は自分を完全者だと申す自信すらあるのだ。
















今度は逆に視点を変えてみよう。もし、そんな不完全なる現実社会にリンクしたいと思うならばだ。私の様な完全者でもリンクが叶わない訳ではないと理屈上では説明出来る。それは、不完全界にはエゴがまみれて居るからこそ、自分が不完全者になれば良いと言うだけの事なのだ。この世で現実に形や結果を出すためには、エゴ、すなわち、楽しみながら結果を出す事で、皆は付いて来るのだ。不完全界の表現や仕事には、必ず投げ手と受け手が居るもの。なれば、受け手さえ納得すればそれは賛同を得られ、素晴らしい結果となる。













どんなに頑張っても頑張っても、結果が出ないと言う可哀想な人間がよく居る。それは単に苦しみながら頑張って居るからなだけであり、その時も心の中には価値は積み上げられて居るのだが、現実の結果になって居ないだけである。だからもし結果に拘るなら、受け手に受け入れられないとそれは結果に繋がらない事になる。残念だが、この世は群れ合いの社会だから、どんなに独り素晴らしい理念や愛を唱えても、受け手から遠ければ誰にも届かない事になる。今の私の様にー。


















それに加え不完全界への愛もないと、不完全界は拒否反応ばかり示す事になる。私みたいに「光だ、光だ」ばかり言って居ても独りぼっちになるばかりで、誰にも何一つ届かない事になってしまう。でも私は既に完全者なので、もう現実社会=不完全界には戻れないだろう、心からは。だから完全愛を心に抱えながら、現実に合わせたフリをして、生き辛い人生をこの社会の中、生きて行かないといけない。
















独りぼっちには慣れて来た私だし、でも別に皆の中に戻りたくない私でも無い。だけど、私の生き方や在り方は段々固定化して来ている。もちろん、完全者として。私は不完全愛(不完全を許し愛する心)が無い訳でも無い筈なのに、あまり不完全界は得意では無いのだ。これが皆との決定的な違いだ。私は完全をやって居るほうが楽なのだ。子供の頃からこんな自分だったけれど隠す様に生きて来た様に思う。皆に合わせるのは苦手でもなかった昔だったけれど、年齢と共に社会に出られない程、段々皆の様な生き方が苦しくなって行くのを覚え、未だに社会を生きて行く事、と言うより外を歩く事すら魂(こころ)から苦しい想いだ。















別に私は私で良いのだと思う。だけど来年から町内会やらの活動が増えるので、私は少し皆に合わせる必要もあるのかなと思う。でもそれは今までの様に無理矢理みんなのエゴに合わせるのでは無くて、私もエゴのフリとして、やりたい様に少しワガママに振る舞ってみようかなと思うのだ。心から楽しむ自分で居られて居るか、チェックしながら進む現実にしたいと思う。














本当はね、現実がもう少し、理想や夢を語る人間を追い出さないような社会にならないとね、とは思う。だけど仕方無いね、これが今現在の社会だものね。私はこれからも『真心』を大事に、最後まで諦めない『永遠の愛』を魂の中に抱き続け、頑張って行こうと思う。これからも私は闇や悲しみに負けない!希望だけが友達さ!笑
















因みに、冒頭に書いた「チクチク痛い」のは、完全者の私に対する挑戦が痛みの源である。だから私は完全を掴めず、私の世界とリンク出来ないで居る人間達の心を粗末にしない様に、現実にも心をリンクさせたり、完全者としての自覚を持ちながらも皆の与える刺激にも応える様に、完全界への抜け道も示しながら、一人一人との関わりも愛して行ける様になれればな思う。
















現実が苦しい理由、それは希望や理想が勝てない社会だからに他ならない。でもそれは自分独りで幾らでも改善、開拓、解明して行ける。私も独りでいつも苦しみの理由を解明してここまで来れた。全ては心次第であるなと思う。光や希望はどこまでもそれそのものでしか無いから、幾ら他者が闇から足を引っ張って来ようとも、自分次第なのだ。闇が辛いなら、最早独りで生きる覚悟も辞さない私も居る。迷いや煩悩は誰にでも在るが、振り回されるのも本来は自分の意志なのだから、私達はいつ何時も、自分の人生や魂に責任を持って生きたいものだと思う。


















私達が苦しいのは、光がしょっちゅう隠れる瞬間を迎えるからだ。光を掴んで置く事すら、自分の責任だったのだなとつくづく思う。現実は心の修行の為にあると私は思うから、私は心の存在を現実以上に大切にして来た。心さえ万全・磐石なら怖いものは無いと私なら思う。完全は心に住み、その完全なる心はどんな現実も変えて行ける力を持つもの。心が先に在りき。心さえ鍛えて行けば、自ずと世界は必ず回り行くと私は心得て居る。心に完全愛を持つ者は永遠に笑う。全てが愛に還るからだ。(終わり)