NAOBON’s diary

日々の心の発見を多くの人に伝えたく綴って居ります!

神一色に染まる直前日記

私には核の世界と言うものがあるのだが、世の中には核を掴んで居る人間は非常に少ない。私が知って居るだけでは2人しか居ない。核を知る者は、普遍性や永遠性にまで到達して居る。だけど普通の人間は何かへの依存によって誤魔化して生きて居るものだから、核の存在などには到底至る事も無いままに、地獄の様な苦悩を背負い続ける事になる。













私みたいな精神障害者の様な肩書き(看板)を持つ者の中には、健常者にも増して核を掴みづらく、いつも表層界をさまよい他人に影響ばかり受けて振り回されて苦悩する人達も多い。私も数年前まではその口だった。だけど旦那さんとの出逢いや若い頃のカウンセラーとの出逢いにより、自分自身でも模索し続け、核を掴む事に成功した。















私も表面をさまよい続けて居たから、核は掴み辛かったのだが、逃げずに一つ一つ問題や苦悩と向き合ったら、ちゃんと振り回されぬ普遍性は心に抱く事が出来る様になった。この私の様に表面が荒れ果て捲っての核との出逢いを果たす人間は、他者の痛みに敏感な側面を持つため、自分が核を掴むだけでなく、他者の事も核の世界へ引っ張り上げられる性質を持つと言う特徴がある。
















だからそんな私は、表面を未だに大事にしながら、核の世界を見つめたりして居るのだが、なかなか核の世界に染まるだけをしようとはやっぱりしない。やはり表面をさまよう癖を忘れない様にしながら、周りに意識を向けながらの努力の日々となって居る。世の中のどの人にも核は存在するのだが、皆は深すぎるその世界があまりに果てしなく感じるために、現実の表面世界に流され、核を意識する事すら諦めてしまって居る人達で溢れ返って居る。















何度でも言うが、皆にも普遍性まで到達する世界は在るのに、諦めてしまって居る。たとえば「愛する事の大切さ」や「真心で頑張ること」とか、ふと胸に手を当てれば誰にでも解る事なのだが、皆はその『本質世界』を現す前に、表面での叩きのめし合いに希望をヤられてしまい、立ち上がる事を忘れてしまって居るのだ。当たり前が当たり前と分からなくなってしまって居るのだ。














だから表面でのジタバタに疲れ、いつしか希望すら諦めてしまい、もがくのを辞めて流されて行ってしまう。それだけ核を自覚したり掴む事は大変な作業であって、誰にでも出来る事では無いどころか、殆ど全員が忘れしまって居る。表面で核世界の愛し合うだとか他者を大事にだとかを展開すると、この世は何故か袋叩きに遭ってしまう。だから皆は心の中に愛や真心をしまいこんでしまい、二度と呼び起こさずに死を迎えてしまう。そう、死とは希望の欠落からだんだん堕ちて行く世界なのだ。だから希望を馬鹿にしては怖い事なのだが、気付いて居る者は殆ど居ない筈だ。
















表面でも、核の愛や光を展開すべくもがき続ける事は、辛くて辛くて死にそうになるから、普通の人間にはお勧め出来ない。私はその世界を走り抜いてしまったので「皆も核を表面へ引っ張り出して来い」なんて強制はもはや望まない。皆は表面があまりに辛すぎて表面で悪さをしたり、他者の足を引っ張って邪魔をする者まで居たりする。そんな失望者が希望者の愛や光を食い物にして、やりたい放題になるのも、甘えから起こって居る。















他者の希望を邪魔する資格がある者など誰も居ない。その者がどれだけ皆を思い遣り、全体の幸せだけを考えて居るかなど、他者を邪魔するレベルの者になど到底理解など出来ないだろう。自分が失望を抱いて脱落したからと言って他者の光を停める権利は誰にも無いのだと気付く事が出来る者も居らず、可哀想だが、自分の闇を他人のせいにして居るうちは、他者の本物の光や愛にだって気付ける者は居ないだろう。自分が不幸な人間に限って、他者との境界線を曖昧にしてしまい、他者の幸福を妬み、貶める事でしか喜びを抱けぬ様になるのだ。本当に可哀想な現実だ。
















愛や光はちゃんと存在する。心をクリアにして研ぎ澄ませば自ずと見えて来るのが、核の世界や希望の光である。だがそれを諦める者が表面でのさばって悪さをするのは戴けない。苦しいなら核を掴んだ者から光への進み方を学ぶなり、模索を続けて諦めぬべきだ。私はその為なら、幾らでも協力したいと思うのだ。核を立ち上げるのが辛いなら、悪さをせずにジッと闇が明けるのを賢くまつべきだ。その為なら私は自分が核を表層まで引っ張り出して来て、皆をちゃんと光で包みたいと思う。これは私の力などでは無くて、それこそ『神の愛』の力なのだ。














私はここまで逃げなかった。だから最後まで走り抜きたいと思う。いや、私には後ろに引き下がる道は用意されて居ない筈だ。結局、私はどんなに辛くても最後まで完走してしまう自分しか知らないのだ。表面と核との合致を図ること、それはありとあらゆる神以外の世界が神によって包まれる事を意味する。私は表層部は色々駆使してここまで走って来たので、色々な世界をさまよいながらもこれらの世界を神一色に染める準備は出来て来た筈だ。あとは、唯、光の到来を待つだけである。ここからが正念場であり、楽しみな時節(とき)の到来である。