NAOBON’s diary

日々の心の発見を多くの人に伝えたく綴って居ります!

不完全愛で終わらない私達の希望~永遠の光へ~

男女の愛も、隣人や友人への自己犠牲愛も、それ自体が報われなくて悲しいと言う事は実は無い。男女の愛に走る理由も、自己犠牲愛に走る理由も、全ては完全なる愛が叶わない事から発生する。














完全愛が叶えば、私達は不完全愛に逃げる必要が無いのである。しかしながら、この不完全界では愛が必ず形に頼り、エゴにまみれたものになる事から、心の中の完全愛が不完全愛へと形を取って現れる。完全愛に生きられさえすれば、私達はエゴの愛で苦しまなくても済む様になる。















不完全愛が叶わないから苦しいと思い込んで居た私達も、実は完全愛の叶わない理不尽さに耐えられず、自己犠牲愛や男女の愛にすがって、愛の幻を追い求めて居たのである。では完全愛とは何か?















それは神なる完全愛の事を言うのだ。私達は神を目指しては完全であろうと苦しんで来たのだ。そして私達は完全になり切れないこの現実に観念し、不完全界に生きる覚悟を持つ様になる。これが大人や社会人になると言う意味である。

















実は完全は心の中に存在し、神も私達人間の心の中に住んで居るのである。だから心をクリアにし、神を心の中に出現させ、常に神とリンクし続ける事で、生きて人間で在りながら神の意志を受け止めて他者を愛する完全愛に生きたり、神の御心と意思のままに自分を進める事が出来る様になる。
















私達の社会は完全愛に生きる事を諦めて居る人間だらけだが、確かに社会での繋がりでは、人間と言う不完全者同士の繋がりだから、不完全愛しか展開出来ないのでは無いかと思われ勝ちである。でも人間同士で不完全だからと不安で群れ合って居ても、誰も本物の希望や光へ旅立て無い。














辛いからこそ、群れ合いで誤魔化さずに、本当の答えを模索し、答えを掴む勇気を持ちたいものである。「神は確かに存在する」、私はそう断言する。私がこんな事を言えるのも、神と確かに心の中で出逢い、神からの意志を頂き、言葉に代えて紡げて居るからである。














独りぼっちを恐れない事も必要だ。孤独の果てにいつも神は見守って居てくださるもの。人間の不完全性に傷付き疲れ果てた時、徹底的に闘い、心の中の不快な闇を払い除ける努力を積む事で、私達は晴れ渡る心の中に永遠に朽ちない希望の光=神を見る事が出来る筈である。