NAOBON’s diary

日々の心の発見を多くの人に伝えたく綴って居ります!

「人間の生きる意味」についての考察

私は何もやっても、他人からガツガツ言われる。

先程のブログにも「言われぬ様に自分で気を付ける」と書いて置きながら、

そう言えば「気を付けてもガツガツ言われるな…」

そう気付いたのである。

何を隠そう、

私は現実が下手くそなのである。














そう言えば、私は身体や感覚や物質的な世界や、

現実にまつわる世界が大の苦手である。

誰かと肉体と肉体で(変な意味では無い…)「やあ!」と会うのも苦手だし、

とかく想いの中に入り勝ちな傾向があるし、

現実で物事にぶつかる事を出来れば避けたがる私なのだ。












アルバイトをしても「動きがトロイ!」と迷惑を掛けてしまうし、

ボランティアをすれば分野によっては邪魔になってしまう事もある。

家事をすれば、マイペースがきく掃除や洗濯は何とかなるが、

炊事は、旦那さんの味覚には到底合わないものしか作れず、

今では出来合いを買って来る様になったのだが、

それまでは「こんなもの食えるか~?!」みたいに責められたっけな…。













私は「努力賞」タイプの人間である。

努力しか取り柄が無いのだ。

だから一生懸命やる事はやるが、結果はかなり後になって出て来る。

だから今いまの現実で結果を焦る人間には、

私の様な者は苛つくし、出来れば関わりたく無いらしい。

あまりに効率が悪く、生産性が無いため、

私は現実社会ではお邪魔みたいなのだ。












何の取り柄も無くて、笑顔もひきつっているし(笑)、

良いところが現実には皆無な私なので、

私はガツガツ言われ放題である。

でも私は自分が悪いからと謙虚に謝る訳でも無い。

何故なら、私は現実に価値を置いていないのだ。

だけど皆のフリをして現実にも紛れ込む努力をして来た。

だけど紛れ込めなくて、社会の皆に「何やってんの?」「何にも出来ない馬鹿者が!」と、

誰からも心や雰囲気で、いつも罵られる感じを受け続けていた。











ガツガツ言われるのは自分が悪いから?

でも私は皆と同じ事が出来ても、さして嬉しくは無いのだ。

結果を出して重宝されたり愛されたりするより、

ありのままの自分は受け入れて貰えないのか?

と思ったのだ。

小さい頃から誰かの為に何か結果や形を出さないと、

生きていてはいけない様な気がして来た。

そうしたら、「人間ってみんな、私に何か期待している?!」と思う様な人間になってしまったのだ。












誰かのために生きて当たり前。

何かを出来ないと、形を残せないと、

人間として価値が無いのだと、子供心に思ってしまったのである。

私は無能だ…

そう言い聞かせては「私の素は愛して貰えないの~?!」と、

誰にでも心の中で問い掛ける人生になってしまっていた。

私は果たして本当に無能だったのか…?












誰かに愛されたかった。

でも姿かたちや能力やパワーや、

何か持ち物が無いと愛されないのだと、

社会の人間達に失望して行った。

私は素のままに生きると愛されないと思い、

今の私になると「素で生きると殺される」とまで思う位になってしまっている。

愛とは何だったのか?












私は飾らない自分に今でも自信が無い。

何も持たない自分への失望と、私を愛さなかった全ての人間たちへの失望で、

私の心の中は闇にまみれている。

あぁ、私は何故生きているのだろう?

何も出来ない人間は生きていてはいけないのかな?

いつも心の中ではそう自問自答している。












こんなに頑張っても結果が出ない人には、

愛も返らないのだな。

誰かを想っても、最後は皆を想っても、

私は何の現実での形も取れなくて、

これでは生きる意味は無くて、私の存在は無価値だったのかな?

この世は、皆さん、今、何を想って生きていらっしゃるのだろう?












裸の心や裸の在り方は、愛されませんかね?

何かを身にまとっていないと、その人間には生きる価値すら無かったのですかね?

外見や容姿、能力や財産、地位や身分や名誉、

何をどれだけ持てば愛されたのでしょう?

心があるがままに生きて、「皆を愛するよ」と言ったって、

誰一人にも届かなかったでは無いですか?!

いのちって、こころって、存在って、生きるって、

何だったのでしょうか?












私には果たして生きていても良いと言って下さる方は、

いらっしゃったのだろうか?

ここに生きていて欲しいなんて、

言われた事がないよ??

私は今、誰にも必要とされていない事にうち震えています。

心が泣いています。

誰が、私を必要としてくださいますか?












私の現実には、何もありませんよ?

心だけに愛したい想いを一つ、

そして後は、ここに今生きている身体だけが存在しています。

私はできる事はなんでも頑張りました。

努力をすれば何でも叶う事も知っています。

だけど、愛だけは、簡単には手に入りませんね?

愛はどうすれば戴けたのでしょう?












何度も言います。

私には価値が無かったのでしょうか?

一体、この世に本当の愛で生きている人間はどれだけいるのでしょう?

私は無能で無価値?

そして皆さんは有能で価値が私よりも沢山あったのでしょうか?

人間の価値って何を以って、価値と言うのでしょう?












人間、みな平等とは言いますが、

何が平等だったのか?

私なら、最後の持ち物、「他者を愛する心」一つだけが、

生きとし生ける全ての生き物や存在の価値であり、

唯一無二の持ち物であり、宝物だったと思わずにいられません。












人間がここに生きる意味、

それは他者との関わり無くしては、存在し得ないと思うのです。

今の時代、とかく個人主義が叫ばれ勝ちですが、

「生きる」とは『愛する事そのもの』なのかも知れないと私は思います。

『飾らない心』だけで何処まで勝負できるかが、いつも問われているのかも知れませんね。









終わり