NAOBON’s diary

日々の心の発見を多くの人に伝えたく綴って居ります!

完全なる愛までの道のり

目が悪くなって来たのよ。
これは、緑内障とド近眼の両攻めで、私の年齢も勿論相まって、白くモヤが掛かる様な、でも気のせいの様な感じなのだ。
私は段々目を使えなくなって来るのかな、なんて思いながら、相変わらずスマホに噛り付く生活を辞められないで居る。













なに、私はムツムツと何でも頑張っては根をつめる性格なので、目は小さい頃から近視であり、私の家族も、父はド近眼家系の血を引っ張って来て居るので、私は父似が激しかったせいか、超ド近眼の子供時代と言う人生のスタートであった。
これを書きながらも、クダラネー内容だな~と思って目は疲労感を増し、視力が落ちて行くイメージを感じて居る。
私には目を使う作業は殊に、いつも無意味だと自分では感じるらしく、使う度に目は弱って行くのを覚える。
私は興味や意味を感じないと、その事柄、たとえば感覚器を使った作業や、人間の中に混じって何か仕事をするとか、そう言う全てが自分の中でマイナス要素になってしまう様だ。
身体も心もストレスをどうも感じてしまうのだ。














私は、いつも物事に意味を見出だそうとする傾向がある様だ。
ツマラナイのは、私の場合は、自分がワガママだからツマラナイのでは無くて、愛や本質的な生きる意味に直接関わって来ない事に、やり切れなさや無意味さを感じてしまうからなのだ。
もう少し、感覚器や身体に頼るよりも、心の奥底で様々な事をダイレクトに楽しみたい。
だからこそ、人間そのものや人間の心を大事にして、それらを関わりや交流に結び付けたいと思うのである。














私は基本、人間が好きである。
だけど傷付きやすいのも事実であり、周りの人間は腫れ物を触る様に私に関わって来たと言う経緯もある。
そして精神障害者と言う肩書きもあれば、ストレスから乳ガン患者もかつては経験したものだ。
いつも私の生きる世界には、極度のストレスは付き物である。
それなのに、「人間が好きだ」と豪語出来るのにはいつも私流の覚悟やスタンスがあるのは言うまでもない。















誰かを幸せにしたい。
誰もが思う事だろう。
だけど他者を愛する事には、リスクや桁外れな頑張りや大きな犠牲だって時には必要になる。
その途中過程で悩んで迷っては、時に傷付いたり病気になる事だってあるだろう。
だから、精神病だろうと癌だろうと本当は、唯、誰かを愛する為のリスクと闘って居るが為の途中経過の症状や状態なのである。
可笑しい事でも無いし、別に恥ずべき事でも無いのだ。
一生懸命頑張って居る証拠だと私なら思う。















愛し合うのは難しくても、誰かを愛する事、つまりは一方的で見返りが無くても自分からは愛に立ち返る事は、誰にでも出来た筈である。
辛い、苦しい、それはいつも愛に立ち返っても立ち返っても理解されない時なのでは無いだろうか。
だけど、愛とは本来、愛されるよりも愛する事を学ぶ訓練の繰り返しで、本当の強固な愛に成長させて行けるのでは無いだろうか。
苦しくて病気になりました、とか、辛すぎて自殺したいですとか、そこまで行ったなら、多少誰かの愛に甘える時だと私は思う。
愛は確かに持ちつ持たれつである。
だからどうにもならない時は大いに甘えるべきだと思う。















だけど、甘えてばかりも考えものである。
なるべく誰かを愛する努力は最後まで諦めない覚悟を持ちたいものであるが、病気や死んでしまったなんて言うのは本末転倒であるから、自分の限界とニラメッコしながら、調整を計りたいものである。
悩みは、誰にでも付き物、そして人間とは愛に生きる為に生まれて来たのだから、私達は大きな負荷を背負ってでも負けたくない命たちなのだが、そこは自分の心のキャパを大きくする訓練も積みながらの愛の修行、無理をせずに、でも甘え過ぎや怠惰は厳しく自分に戒めて進みたいものである。














苦しいや辛い、体調不良にストレス、自殺願望、世の中は、生きるのが本当に楽ではないなんてモノでは無い。
だからこそ、皆で助け合う心や、時に「無私」と言う慈悲や真心が問われ続ける一生である。
誰かを愛したい、ならばそれ相応の意地と覚悟が必要になるであろうけれど、本当は全ての人間を愛せるなら私達の心の中からストレスは消え去る筈であろう。
人間とはキリスト教的に言うと「隣人愛」で全ての者が愛し合うべきである。
何故他者を全員愛せないのかと言うと、そこに一人一人のエゴが関わるからである。















本来、人間同士や存在同士は、心の奥底に愛し合うのが当たり前と言う真心を持って生まれて来て居る。
だけど、傷付け合ったり解り合えないのは、心の奥底に眠る本質的な真心から目を逸らして生きて居るからである。
本当の心が立ち上がるには、まだまだ私達は紆余曲折して苦悩や痛みを味わいながら、幾多の自己犠牲や絶対的な神なる正しさを、心の真髄まで味わい尽くさなくてはならないのだと思う。














誰かに甘えて居るうちは、誰かに愛されて居るうちである。
でもたとえ誰にも見向きされなくなっても、つまり愛されなくても、貴方は誰かや誰もを愛する事が出来るか、そうなれるかが、最後の真骨頂である。
愛が足りないとか、愛され続けたい、誰もが思う事であろう。だけど、愛されながら愛する事を学ぶ段階は非常に苦しい。
甘えれば、人間、甘えた分だけ後でツケを払わなくてはならないのがルール。
だから愛された分、有り難う!と返す分だけ、愛の進歩は遅くなるのだ。
本当の愛の使い手になるには、愛される事を度外視して、愛に生きられる訓練が必要になる。














元々、精神障害者や病気の患者さんとかは、愛に躓(つまず)き、愛の見返りを戴こうとして居る魂である。心のキャパ以上の頑張りをした後は、また療養のあと、元気に愛の世界に戻る事が望まれる。
完全なる愛に辿り着くには、何度も失敗しては愛の見返りを必要とする事になるであろうが、諦めては駄目なのである。
失敗の果ての果てには、必ずエゴを忘れ愛のみに生きられる自分と出逢う事は可能なのである。
愛はある程度の修行の果てに、完全愛と変わるだろう。
その時は誰にも訪れる。
その時を夢見て、今は失敗を重ね、頑張って行く私達で良いのでは無いだろうか?