NAOBON’s diary

日々の心の発見を多くの人に伝えたく綴って居ります!

神界からの招待状♪♪

人間とはと言い切って良いのか分からないが、私なりに思うのは、

たとえば私と言う人間などは、追い詰められると頑張ってしまう真面目気質な為、

ゴリゴリと苦難を走り抜いてしまう傾向がある。

自分自身に、逃げようにも逃げられぬ現実を突き付けながら、

そのくせ、誰にも甘えられない環境も用意する。

そうすると、最早、パッパカ走るしかなくなってしまうのだ。

人間って、辛い想いをしないと、成長も成し得ないものなのだなと思うのだ。












私は、人間には二つの気質があると思う。

同じパッパカ走るのにも、目的が二つあるのだ。

一つは自分の楽しみの為に頑張れるタイプ。

そしてもう一つは、他者と愛し合う喜びの為に頑張れるタイプだ。

私は断然、後者のタイプだったので、前者の「自分の為の頑張り」を否定する人間だった。

だけど実はどちらの動機も、エゴと言えばエゴだったのだ。

一見、後者が崇高な理想に見えるけれど、

他人と愛し合うと言うのも、実は「愛されたい」と言う動機があるのだから、

やはりエゴだったと言える気がするのだ。
















自分の為の頑張りも、他者との愛し合う目的も、

どちらも最終目的とはならない。

実は、自分とか他者とかが目標なのでは無くて、

「頑張ること」自体が目的・目標だったのでは無いかと最近思う私なのだ。

だから自分の事だけ考えて居たって罪では無いし、

他者との愛を思ったとて、愛自体が答えでは無い。

どの人間も、等しく頑張る権利があり、

頑張ってさえ居れば、その存在は万事OKなのである。

唯、私の場合だと少しだけ違う部分がある。

それは皆さんにお節介で愛し合う事を促そうとして、

わざと愛し合う事を押し付けて来てしまったのだ。

しかし先にも述べた通り、愛し合う事は最後の答えでは無いから、

私のお節介は不必要だった訳である。

馬鹿な私だ。















パッパカ走って、私も頑張って愛を弘めようとしたのだが、

やっぱり私も他者との愛に生きたのでは無く、

頑張る自分を癖付けるための、死に物狂いの闘いだったのだなと振り返るのである。

自分がエゴを展開しても、神はニコニコと微笑みながら私達を包み、

愛に生きるべく他者を想い遣っても、次々試練が展開された理由がここに有ったのだ。

だから神って平等なのだなと思うのだ。

では何故、私達の周りには常に仲間が居て、

共に闘って居ったのか?

それはおそらく、愛し合う為なようで居てそうでは無く、

私達同士の愛よりも、神の元に私達が本来一つであった事を示す片割れとしての私達と言う意味、

即ち、私達が全て揃ってやっと一つの神となる、

神の御子としての各々の存在であったと言うこと、

だから愛し合うには、一つ一つの魂が元々神と言う存在に自分達が帰する事が出来る存在であったと認識する必要があり、

私達は神界に戻り、各々が神の御子として神性に帰属する事でしか、

各々の存在の価値や意義には気付けないのでは無いか。

人間としての不完全性で「仕方無いな」と諦める世界に生きて居るだけでは、

お互いに真の幸福を感じる事は出来ないのでは無いかと思う。
















光であれ、闇であれ、どちらにどう存在して居ようとも、

常に神質を思い出して、光を忘れない心さえ掴んで居れば、

愛し合うことも、幸福になる事も、永遠に逃す事が無いのではないかなと思うのだ。

結果的にそれが、希望だけを見詰め、世界を希望一色に染める一歩一歩になって行くのではないかと思うのである。

諦めない信念を持つ事、即ち神との合致、神界への帰属を最後まで諦めなければ、

私達は全員が必ず救われて行けるのだと私は確信したのである。

私達が光になる日も、そう遠くない筈だ。
















真心で頑張り続け、信頼し合え無くても諦めず、

常に心の愛に立ち返るまでの一人一人の格闘は、

必ずや最後には全員の笑顔を見る事だろう。

闇だって愛の裏返し、希望への過渡期なのだから、

どのポジションであろうと、慎重に走り進めるなら、

いつだって希望は沸き返る筈だ。

とにかく最後まで諦めない事、これだけで永遠は私達のものである。

神もそれを祝福するであろう。

ちょっとぶっ飛んだ話に感じたかも知れないが、

これが今までの私の心の中に沸き起こった神界(?)からのメッセージである。

終わり

神への召還

報われない想いをここに書き綴る事にした。

私は受難者として全てを背負ったが、最後まで誰にも伝わらなかった。

私は終わった人間なのだよね。

魂の修行も終えてこの世に生まれて来て居たし、

皆を引っ張り上げようとして、この地、この国、この星に降り立った。

だけどこの不完全世界から完全なる光世界への道のりは、

皆さんには厳しかったらしく、

誰もが誤魔化しながら、本当の道にはなかなか辿り着けないで居た様だった。

皆は本物と言う意味をご存知だろうか?

結局、当たり前に社会に属すると、当たり前に大切な事を見落として生きて行く事になる。

だから紛い物や偽物の在り方を本当の存在と勘違いし、

本物と言う人間すら、そいつも、いやそいつこそ、紛い物!みたいに思い込む人間だらけになる。















とにかく、濁りが無いと、形が取れないから、

誰にも伝わらなくなってしまう。

そうすると、濁りが無い事すらも疑われる理由になってしまう。

完全なる心は完全だからこそ、痛め付けられ信じられもしなくなる。

中途半端な方が人間には受け入れられやすいらしい。

唯々、本物が嘆いて居るだけのブログになってしまう。

伝えようと必死だったけれど、伝わらないと諦めた方が早そうだ。

だって、誰もが本当の答えなんてまだ知りたくも無いのだもの。

私が生まれるのが何百年、下手すれば何千年早すぎたのだね、きっと。

伝わらなかったのもそのせいだ。















何を言っても無駄だと解ってしまった。

私がもがいても背負っても、その愛は誰一人にも伝わる事は無い。

皆、グルグルお互いのポジションを経験しながら、

お互いの立場を理解し、愛への道のりを一歩一歩進んで居るかの様だが、

みんな自分の勉強に精一杯で、最後なんてまだ必要無いらしい。

だから皆さんはまだ辛い想いをもっと経験したいらしく、

皆さんは自分達がなぜ苦しかったのかや、

どうすれば本当の幸せを掴めたかと言う問題の答えは、

まだ必要とはしないらしい。
















苦しみを苦しみとして背負う事に観念し、諦めて居る様なので、

もう何も私には伝えられ無い。

最後の最終回答なんて、皆さんにはどうでも良い事なのだものね。

私は何も要らないし、皆さんからの愛が欲しかった訳でも無い。

唯、皆さんを幸せにしようと一生懸命に目論見、頑張って来ただけなのだ。

皆が心配だから、愛せる様になれる様にと「愛しなさい」とも言ったし、

皆さんが独りにならない様にと「私を信じなさい」とも言った。

だけど誰にも誤解され、「お前が愛されたいのだろ?」とか、

「お前が独りぼっちになりたく無かっただけだろ?」と、

思いっきり疑われてしまった。

















唯々、愛に生きた、と言っても、

誰もがそんな私を信じない。

私は唯々、心から透明に皆さん達と関わった筈だ。

皆さん達の闇にも付き合って受難者として生きたし、

神なる本質を伝えるためにも、こうして大事な事を伝える役目も担って来た。

だけど、誰もが私を疑い、信じなかった。

心は目に見えないからね、

心は触れないからね、

時に音にすらもなれないからね。

皆は私が優しいのを良い事に、最後まで私に甘え捲った。

だけど誰もが甘えはしても真意に気付く者は居なかった。

私は全てを背負い、消え行く命であっても構わない。

皆さんが幸せなら私は文句が無いからだ、本当は。
















唯、私だけが幸せで在っては申し訳ないと思い、

皆さんにも永遠に幸せで在るためのコツを教えて差し上げようと思ったまでの話だった。

でも皆さんは「それくらい知って居る!」と、

豪語しては、私を撥ね付けて近付かせ無かった。

「信じろ!」と言う事なら、私も信じましょう。

でも皆さんは信じたり信じられたりよりも、

自分達の華やかな結果に心を奪われ、

そして私の様な素朴な者からの信頼をはね除け、

私に対し、「要らない!」とも言ってしまった。

では、確かに伝えられはしないよね?

幾ら確かな愛であれ、信頼であっても。

もう、私は要らない人間となったのだね。

だから、もうこの世に縁もゆかりもありませんわ。















私は終わりましたよ。

もう、誰もを幸せに出来る私は消えました。

皆が必要な時が来たら戻って参りますね。

だけど暫くは消えたまま、もう姿を皆さんの前に晒す事も無いでしょう。

私の心の歴史と永遠愛の誕生は、皆様達の世界から姿を消します。

形でも神なる愛で完全に包み込み、不完全界すらも永遠の幸せに変えさせようとした、

私の目論見は終了致します。

私は意味の無い人間でした。

神は見棄てずとも、民(人間)はズタズタに私を引き裂きました。

ここは私の生きるフィールドではありません。

正しいからこそ、苦しみ抜きました。

もう、私がこの世から引っこ抜かれ、神の元に召還されるのも、

時間の問題でしょう。

「理念や完全愛について」の終息版ブログ

前回のブログ「理念や完全愛について」のまとめを仕上げたく、

今回の短めブログを立ち上げました。

先ずは理念(イデア)と完全愛(アガペー)は、最後は同じものを指すのだと言う事が言えます。

理想的な完全形(理念)は、最後は無償の完全愛を指して終了すると言う訳で、

最後は全てが神に帰すると言う事でまとめ上げられます。













そして、私の無意識がどんどん有意識化してしまうと言う件については、

私の心の奥には完全が住んで居て、どんどん完全愛や理念に基づいて、

どう生きれば良いか、どう在れば良いかが、次々に心に入り込んで来て、

私は日本語に言語化してどんどん、この様に伝えて行って居ます。

だけど、皆さんは無意識の世界が沢山お有りになると思います。

無意識は、神界が司る部分なので、皆さんは無意識に何かをやっても、

たとえばそれが物凄く不完全で、後で不完全さを勉強する事になろうと、

それは神から与えられた世界だから、個の人間にはそんなには責任は無いと、

私は現段階で思います。














神が許してくれて居るのだから、堂々として居られる。

だけどこの世で苦しむ時と言うのは、間違いが自分の責任だと解って居る時です。

つまり神が責任を分割して、私達人間にも「神の似姿たれ!」と仰せだったり、

若しくは私達自身から望んで、神の似姿たろうと頑張る時などには、

私達は本当に辛い想いに耐える日々にもなります。













私の場合などは、人類や存在すべての責任を私が負うてしまったので、

大変な目に遭いましたね。

無意識世界が無くなってしまったのですよね、

私の心や存在の中から。

どんどん神界が私に有意識としてメッセージを投げて来る様な感じなので、

私は今では覚悟を決めて、背負っては伝えて行って居ます。













だけど聞きたく無い、見たく無い方は、無視するべきですし、

自分らしさとしての宝物って有りますから、

その持ち分で輝く事は大切な事だと思います。

だから気になる方は勉強されてください、

嫌な方は「らしく」生きてください、

唯、それだけです。

以上になります。

読んで頂き、誠に有り難うございます(*^^*)










おわり

理念や完全愛について

不完全な愛は形を取る。

完全なる愛は心で伝える愛、若しくは神なる無償の愛(「アガペー」)を言う。

不完全な理は正義と同義である。

完全なる理は理念として「イデア」の様に心の中に住んで居る。











意識を巡らせると、どんどん際限無く心の奥へと探求は進む。

そして誰かの無意識の不完全を責めたくなったり、自分の不完全が恥ずかしくなったりする。

要は、無意識で生きられたなら、不完全は自然な事として許されるし、

完全だって神なる世界としてリンクを自然に許される。

無意識をどんどん有意識に切り替えて行く作業は、本当に危険なほどにタブー視されて居る。













私が辿り着いて居る、永遠に戴いて行ける「理」は、

無意識を有意識に切り替えて行く作業の中でどんどん現れて来る。

これを書いて居ても、そのどんどん理屈が入り込んで来るので、

それに任せて書いて居る。

結局は、私の理は完全形としては入って来ない。

次々、更なる新しい理屈が入り込んで来るので、

これはイデアでは無いと言えよう。













このまま全部を解明して行けそうな気がするのだが、

無意識を有意識に掘り下げる作業は、人智を超えてやる事なので、

本当は在ってはならない事なのかも知れない。

だから心の中で皆に睨まれて居る様な気がするのである。













どうすれば完全愛(アガペー)と完全理(イデア)に到達出来るのか?

不完全愛だと不完全理によって人間世界では攻撃される傾向がある。

そして人間の不完全に対して正義など不完全理で追及すると、

私達の攻撃のやり合いが留まらずに、誰もが傷を負いまくり、

いつまで経っても誰も幸せになれない。














不完全な世界に在っては、不完全な愛も不完全な理も、

幾ら投げ合っても投げ合っても、私達は幸せを見る事は無い。

完全界に入る事が望まれるのだが、ではどうすれば入れるのか?

理屈を追い求めて、私がどんどんこの様に解明して行っても、

不完全界の無意識部分が有意識に変わるだけで、

なんら完全界には入る事は無い。

それとも完全界に入るとは死ぬ事を意味するのだろうか?













不完全界に居る間は、黙って人間らしく不完全に観念して、

無意識世界からの報果を待つしか無いのだろうか?

私は完全界を乞い求めるあまり、全ての自分の意識を有意識に切り替えてしまった!

なんて事をしてしまった!

私は馬鹿者かも知れない!














私は自分から無意識世界に働き掛け、無意識の無限の世界を、

有意識に下ろそうと必死こいてしまって居る。

無意識を無意識として放置して戴けるものだけ、

自然と下りて来るものだけを戴いたのなら、

こんなに睨まれもしなかっただろう。











私は終わった人なのかも知れない…。

もう、何故生きて居るのかを問答する毎日である。

あ、そう言えば、イデアアガペーはどんな関係性なのだろうか?

完全なる理と完全なる愛は、どんな繋がりが有るのか?

考えが浮かばない…笑

これ以上考えると、完全界に入ってしまうかも知れないから、

辞めて置こうかな?笑











私は結局、タブーを犯しただけなのかも知れない。

私は最早、ここに生きる意味など考え無くても、

命あるうちは生きた方が良いのかも知れないから、

もう、黙って日常に戻ろうかと思う。

ここまでお読み頂き有り難うございます。

「本質界に戻りたい、戻ろうかな~、でも表層世界も棄てない!(^-^)/」

私は他者を叱りも出来るし、相手を愛で包む事も出来る。

どちらも出来るのはいつも、表面的な世界、例えば感覚や感情と言った表現の世界で、である。

私はどんな表現も出来るのだが、相手を見ながら判断して伝える様にして居る。

例えばこの人間(ひと)は、今、愛を欲して居るから、注意するより包んだ方が良いなとか、

別の誰かなら、人格的に信頼出来るから、もっと上の世界を教えても、ちゃんと進めるだろう、

だからわざと足りない部分を厳しく伝えたりする。


















私は「本質世界」を知って居るせいで、表層界で他者の落ち度が解り続ける事も可能だし、

表層界で痛みを潜り抜けて来た経験上、皆の痛みに同化し、愛で許し包む事も可能である。

最後まで知って居るからこその、双方どちらも出来る変わり者である。

でも私を信じない人間には、私のそんな気質を理解する事は難しく、

殊に注意する方に私が回った時の相手方は、思いっきり信じられない故の抵抗をする事が多い。

私には委ねたく無いと言う抵抗や、自分に自尊心があり過ぎての言い返しが半端無いのだ。















私はどんどん相手の落ち度が表層の「不完全世界」に居ると解って行ってしまう。

だから相手にしてみれば、ガツガツ言われると面白く無いと言うのも良く分かるつもりだ。

私も敢えなく激しい抵抗に遭うと、こちら側の痛みも半端無いので、

実はもう表層の不完全世界には居られ無いな~と思う事がしばしばである。

相手を思って言う事が仇になって居るのであるから、

もう「どちらが悪いか、足りないか」の押し問答になるので、

どちらかを悪者にすれば終わると言うのも悲しい私は、

例の如く私から「私が悪かった」を言い出す事が望まれると気付く。















私が悪い事にすると私の他者を愛する心は深まり、

本質がますます成長して行けるのであるが、

それでは貴方達が成長出来ないだろうと、背負う方を譲るのだが、

皆さんにはそこまで真意を理解する者は皆無である。

「私が悪い」は今まで散々言い続けて来た私なので、

今更、辛い事も何も無いのであるが、

皆さんを愛せるからこその振る舞いは「私が背負う」から「皆さんも背負わない?」に変わった。

誰も悪く無いからこそ、自分から背負うと言う事が皆の一般常識になれば、

この世はもっと争いやイザコザが無くなって生きやすい環境になるであろう。

















説明はこれ位にして、私はそろそろ本質界にもゆっくり戻って行こうかと思うのである。

どうせ、私は元々「本質世界」の人間と言うか存在、

終わりの無い「不完全な表層世界」の責め合いや、

形での愛の包み合いの切りの無さにいい加減疲れ果てて居た所だ。

もう皆さんと不完全の痛みを分け合ったり、自分が背負い続ける事には、懲り懲りなのだ。

「心で愛を抱き、皆で幸せになろう!」と言う本質は、

いつだって心の中、見えない触れない世界に存在する。

フテブテシイ態度で接される時はいつも、私が表層世界をさ迷って居る時である。

私はその痛みにもう堪え切れない、だからもう心で神なる永遠愛に旅立とうと思うのである。

表層世界ではどちらが悪いと言う事も無いものだ。




















不完全の責任は民なる「人間」や「命」だけに有るのでは無くて、

神を信じない、永遠に旅立つ事を躊躇する「存在」全てが一様に背負って居る。

全員が今、神の前で「我々は貴方の前で仲良く、貴方の愛の様に、全てで愛し合います!」と

宣言すれば、私達はたちまち救われて行く事だろうと、私には解る。

でもフッと一笑に伏す人間がまだまだ沢山居ることを思うと、

当分の間、それは叶いそうも無く、諦める人間を最後まで諦めずに奮起させる闘いは、

非常に無駄に感じざるを得ないのも事実だろう。

変われないから諦める、と言うのが私は大嫌いなのだが、

暫しの間、この皆さんを救えない葛藤と格闘は続く事は言うまでも無い。

馬鹿らしいと言えば馬鹿らしい、一生懸命な私の頑張りはいつだって虚しく独りぼっちである。

でも負けないのが私の信条であるから、永遠の愛に旅立った以上、

私は永遠に負けないのである。


















表層世界と本質世界は私によって、そろそろ陸続きになった筈である。

どんな人間も諦めなければ、必ず本質世界への切符は手に出来る事だろう。

不完全を叩きのめし合う事に疲れた人間から、

どんどん本物の幸せに入り行くべきであろう。

苦しいからと放置して居ては、苦しみの意味を解明出来ずに、

表層世界をさ迷うばかりである。

だからこそ、愛し合う心(=本質)に照らし合わせて、

全ての問題を解明する努力を最後まで惜しんではならないのである。











おわり

完全なる愛までの道のり

目が悪くなって来たのよ。
これは、緑内障とド近眼の両攻めで、私の年齢も勿論相まって、白くモヤが掛かる様な、でも気のせいの様な感じなのだ。
私は段々目を使えなくなって来るのかな、なんて思いながら、相変わらずスマホに噛り付く生活を辞められないで居る。













なに、私はムツムツと何でも頑張っては根をつめる性格なので、目は小さい頃から近視であり、私の家族も、父はド近眼家系の血を引っ張って来て居るので、私は父似が激しかったせいか、超ド近眼の子供時代と言う人生のスタートであった。
これを書きながらも、クダラネー内容だな~と思って目は疲労感を増し、視力が落ちて行くイメージを感じて居る。
私には目を使う作業は殊に、いつも無意味だと自分では感じるらしく、使う度に目は弱って行くのを覚える。
私は興味や意味を感じないと、その事柄、たとえば感覚器を使った作業や、人間の中に混じって何か仕事をするとか、そう言う全てが自分の中でマイナス要素になってしまう様だ。
身体も心もストレスをどうも感じてしまうのだ。














私は、いつも物事に意味を見出だそうとする傾向がある様だ。
ツマラナイのは、私の場合は、自分がワガママだからツマラナイのでは無くて、愛や本質的な生きる意味に直接関わって来ない事に、やり切れなさや無意味さを感じてしまうからなのだ。
もう少し、感覚器や身体に頼るよりも、心の奥底で様々な事をダイレクトに楽しみたい。
だからこそ、人間そのものや人間の心を大事にして、それらを関わりや交流に結び付けたいと思うのである。














私は基本、人間が好きである。
だけど傷付きやすいのも事実であり、周りの人間は腫れ物を触る様に私に関わって来たと言う経緯もある。
そして精神障害者と言う肩書きもあれば、ストレスから乳ガン患者もかつては経験したものだ。
いつも私の生きる世界には、極度のストレスは付き物である。
それなのに、「人間が好きだ」と豪語出来るのにはいつも私流の覚悟やスタンスがあるのは言うまでもない。















誰かを幸せにしたい。
誰もが思う事だろう。
だけど他者を愛する事には、リスクや桁外れな頑張りや大きな犠牲だって時には必要になる。
その途中過程で悩んで迷っては、時に傷付いたり病気になる事だってあるだろう。
だから、精神病だろうと癌だろうと本当は、唯、誰かを愛する為のリスクと闘って居るが為の途中経過の症状や状態なのである。
可笑しい事でも無いし、別に恥ずべき事でも無いのだ。
一生懸命頑張って居る証拠だと私なら思う。















愛し合うのは難しくても、誰かを愛する事、つまりは一方的で見返りが無くても自分からは愛に立ち返る事は、誰にでも出来た筈である。
辛い、苦しい、それはいつも愛に立ち返っても立ち返っても理解されない時なのでは無いだろうか。
だけど、愛とは本来、愛されるよりも愛する事を学ぶ訓練の繰り返しで、本当の強固な愛に成長させて行けるのでは無いだろうか。
苦しくて病気になりました、とか、辛すぎて自殺したいですとか、そこまで行ったなら、多少誰かの愛に甘える時だと私は思う。
愛は確かに持ちつ持たれつである。
だからどうにもならない時は大いに甘えるべきだと思う。















だけど、甘えてばかりも考えものである。
なるべく誰かを愛する努力は最後まで諦めない覚悟を持ちたいものであるが、病気や死んでしまったなんて言うのは本末転倒であるから、自分の限界とニラメッコしながら、調整を計りたいものである。
悩みは、誰にでも付き物、そして人間とは愛に生きる為に生まれて来たのだから、私達は大きな負荷を背負ってでも負けたくない命たちなのだが、そこは自分の心のキャパを大きくする訓練も積みながらの愛の修行、無理をせずに、でも甘え過ぎや怠惰は厳しく自分に戒めて進みたいものである。














苦しいや辛い、体調不良にストレス、自殺願望、世の中は、生きるのが本当に楽ではないなんてモノでは無い。
だからこそ、皆で助け合う心や、時に「無私」と言う慈悲や真心が問われ続ける一生である。
誰かを愛したい、ならばそれ相応の意地と覚悟が必要になるであろうけれど、本当は全ての人間を愛せるなら私達の心の中からストレスは消え去る筈であろう。
人間とはキリスト教的に言うと「隣人愛」で全ての者が愛し合うべきである。
何故他者を全員愛せないのかと言うと、そこに一人一人のエゴが関わるからである。















本来、人間同士や存在同士は、心の奥底に愛し合うのが当たり前と言う真心を持って生まれて来て居る。
だけど、傷付け合ったり解り合えないのは、心の奥底に眠る本質的な真心から目を逸らして生きて居るからである。
本当の心が立ち上がるには、まだまだ私達は紆余曲折して苦悩や痛みを味わいながら、幾多の自己犠牲や絶対的な神なる正しさを、心の真髄まで味わい尽くさなくてはならないのだと思う。














誰かに甘えて居るうちは、誰かに愛されて居るうちである。
でもたとえ誰にも見向きされなくなっても、つまり愛されなくても、貴方は誰かや誰もを愛する事が出来るか、そうなれるかが、最後の真骨頂である。
愛が足りないとか、愛され続けたい、誰もが思う事であろう。だけど、愛されながら愛する事を学ぶ段階は非常に苦しい。
甘えれば、人間、甘えた分だけ後でツケを払わなくてはならないのがルール。
だから愛された分、有り難う!と返す分だけ、愛の進歩は遅くなるのだ。
本当の愛の使い手になるには、愛される事を度外視して、愛に生きられる訓練が必要になる。














元々、精神障害者や病気の患者さんとかは、愛に躓(つまず)き、愛の見返りを戴こうとして居る魂である。心のキャパ以上の頑張りをした後は、また療養のあと、元気に愛の世界に戻る事が望まれる。
完全なる愛に辿り着くには、何度も失敗しては愛の見返りを必要とする事になるであろうが、諦めては駄目なのである。
失敗の果ての果てには、必ずエゴを忘れ愛のみに生きられる自分と出逢う事は可能なのである。
愛はある程度の修行の果てに、完全愛と変わるだろう。
その時は誰にも訪れる。
その時を夢見て、今は失敗を重ね、頑張って行く私達で良いのでは無いだろうか?

~本格的に社会からはみ出した私の生き方~

人間と言うもの、普通は社会に帰属し、

周りとの現実的な関わりや社会的成果を求めるものだろう。

しかし私にはこの様な社会との接点が全くと言うほど存在しない。

何故なら、社会や現実に漕ぎ出す事が、私にはエゴに思えるのだ。

社会の中で生きる意味を見出だし、社会との関わりを生きる事が、

何か私には、無価値に思えて来たのである。

そりゃ、人間同士の関わりは楽しかったり、刺激を受け合って勉強にもなったりする。

だけど、それが最後の答えでは無かったのだと、

最近、私は気付けてしまったのだ。




















私は独りぼっち、家に居ても、

皆との騒いだり笑い合ったりの現実の楽しみを思い出さない訳ではない。

寧ろ、家に独り、する事も無くジッと寝転がって居るのは、

苦痛にすら感じる事もしばしばで、

時に生きる意味すら見失いそうになる位だ。

なのに、何故社会に出て行かないのか?

と思われるだろう。

実は私は障害者であるせいもあって、勤労の場所とは比較的接点は無いのだ。

そして友達や地域との繋がりも殆ど音沙汰も無い状態。

私から関わりを求めても、皆が私には何故か寄って来てはくれない。

私は誰にも尽くせる気持ちや皆との和を求める心で生きて居ても、

誰にも面白いくらい、気付かれないのだ。

私からのアプローチが苦手で、私は比較的受け身に徹してしまい勝ちなのも、

その原因になって居る気は確かにする。




















いつも独りで居る事が非常に多い。

皆との関わりを求めるほど、何故か皆、遠ざかって行くばかりである。

人間が嫌いな訳でも無いから、結構、今の状況は本当はキツイ。

だけど誰に言っても真剣に聞いて貰えず、

皆、自分の生きる事や生きる意味にのみ、無我夢中で、

私の事など誰の眼中にも無いようなので、

私は皆さんの現実から抹消された存在なのかも知れないなと思い始めて居る。

このブログを読んでくれる人も今のところ、皆無なのも面白い事だ。

段々、現実社会から忘れられ始めて居るのだな、私は。

こうして人間の命って消えて行くのかな、とも思う。



















だから、である。

私は心の世界で、独りぼっちでも幸せになって行こうと思ったのだ。

誰かと寂しさを分け合って、関係性を貪り合うのも、

一つの生き方ではあるだろう。

でも私はエゴで誰かを利用したり、誰かで寂しさを紛らわすのも、

何か違うと思うのだ。

自分の苦しみも寂しさも自分で解決出来そうな気が、

今はするのだ。

それは別に永遠に独りで生きると言う意味では無くて、

私が迷惑を誰にも掛けずに、でも皆さんの面倒は見られる、

そんな人間になれそうな、気がして居るのである。

誰かと関わるのに、自分も弱味を握られて居る事がこの世は大半だから、

でも世の中はそれを持ちつ持たれつとか言って、

助け合いだから仕方ないとする風潮がある。



















私は自分が誰かに助けられるのが元々嫌いでは無かった。

だけど皆があまりに迷惑そうな顔をするので、

そして時にガツガツ責められたりもした経験も相まって、

私は自分の弱味を晒す事に恐怖を感じ始め、

他人の前で自分を出せなくなって行った。

そして今は自分の事を差し置いても、

誰かや周りを一番に考えられる人間になったつもりだ。

だから誰の事も今は救える様になった。

でもそうしたら逆に他者は私の周りには集まらない様になってしまった。

面白いですね。

他者に弱味を握られ、持ちつ持たれつをしなくて済む、

他者に一切面倒を掛けない人間になれたと思ったら、

逆に関わりは遠ざかり、人間社会から自分がどんどん外れて行くと言う悲しみを見る事になってしまうなんて…。

私は他者と心地好い関係性を求めて、

自分のエゴと向き合って、独り心の中で格闘を続け、

いよいよ、達成し、皆の元に戻ろうとしたら、

もう居場所は無くなってしまって居ただなんて。




















ああ、関係性は持ちつ持たれつでお互いのエゴを教え合って、

互いに成長し合えるからこそ、関係は続くものだったのだな。

関係性が辛いからと、独り完全を求めて、独りぼっちの闘いをしてしまっても、

社会なんて確かに必要性を無くしてしまい、

関わりは皆無にもなるものなのだ。

誰かとヤイノやいの言い合うから、

人間社会は存在し、人間関係は存在したのだなと気付かされてしまった。

もう私には戻る場所が皆無なのかも知れない。




















誰かの為に生きられるだけでは駄目だったのだな。

誰かの世話や面倒にもならないと、

その誰かの生きる意味を創る手伝いにならなかったのだな。

私は独りで独走してしまったから、

誰とも関われない、本物の孤独人間になってしまったのかも知れない。

私にはまだ命がこの世との繋がりとして存在して居る。

この命が繋がって居る間は、まだこの世に生きて居て良いと言う意味なのだろう。

何か勉強する事がまだあるのだな。

でも物凄い事に気付かされてしまったから、

正直、神の前に在って恐れ多い気がするのも確かである。

私は宇宙や存在界の掟破りでもしてしまった様な気持ちである。

私はいつまでも完全にはなれない、

だからまだまだ成長の伸び代はある事だろう。

だけど現実と言う感覚や感情の交錯するこの人間社会には、

私の求める完全への道は無いと解って居る私なのだ。

きっと心の中の本質部分に『完全』は眠り、

そこで生きる事が、最後まで完全に向けて走る私の在り方だと思って居る。





















これからも真心や愛と言う『本質』に、心の中で立ち返りながら、

皆さんとの少しの現実での関わりや刺激から、色々勉強しながら、

神界の導きを受けながら、

時に妬まれ、蔑まれながらも、自分にしか出来ない生き方をして行こうと思うのだ。












おわり