神界からの招待状♪♪
人間とはと言い切って良いのか分からないが、私なりに思うのは、
たとえば私と言う人間などは、追い詰められると頑張ってしまう真面目気質な為、
ゴリゴリと苦難を走り抜いてしまう傾向がある。
自分自身に、逃げようにも逃げられぬ現実を突き付けながら、
そのくせ、誰にも甘えられない環境も用意する。
そうすると、最早、パッパカ走るしかなくなってしまうのだ。
人間って、辛い想いをしないと、成長も成し得ないものなのだなと思うのだ。
私は、人間には二つの気質があると思う。
同じパッパカ走るのにも、目的が二つあるのだ。
一つは自分の楽しみの為に頑張れるタイプ。
そしてもう一つは、他者と愛し合う喜びの為に頑張れるタイプだ。
私は断然、後者のタイプだったので、前者の「自分の為の頑張り」を否定する人間だった。
だけど実はどちらの動機も、エゴと言えばエゴだったのだ。
一見、後者が崇高な理想に見えるけれど、
他人と愛し合うと言うのも、実は「愛されたい」と言う動機があるのだから、
やはりエゴだったと言える気がするのだ。
自分の為の頑張りも、他者との愛し合う目的も、
どちらも最終目的とはならない。
実は、自分とか他者とかが目標なのでは無くて、
「頑張ること」自体が目的・目標だったのでは無いかと最近思う私なのだ。
だから自分の事だけ考えて居たって罪では無いし、
他者との愛を思ったとて、愛自体が答えでは無い。
どの人間も、等しく頑張る権利があり、
頑張ってさえ居れば、その存在は万事OKなのである。
唯、私の場合だと少しだけ違う部分がある。
それは皆さんにお節介で愛し合う事を促そうとして、
わざと愛し合う事を押し付けて来てしまったのだ。
しかし先にも述べた通り、愛し合う事は最後の答えでは無いから、
私のお節介は不必要だった訳である。
馬鹿な私だ。
パッパカ走って、私も頑張って愛を弘めようとしたのだが、
やっぱり私も他者との愛に生きたのでは無く、
頑張る自分を癖付けるための、死に物狂いの闘いだったのだなと振り返るのである。
自分がエゴを展開しても、神はニコニコと微笑みながら私達を包み、
愛に生きるべく他者を想い遣っても、次々試練が展開された理由がここに有ったのだ。
だから神って平等なのだなと思うのだ。
では何故、私達の周りには常に仲間が居て、
共に闘って居ったのか?
それはおそらく、愛し合う為なようで居てそうでは無く、
私達同士の愛よりも、神の元に私達が本来一つであった事を示す片割れとしての私達と言う意味、
即ち、私達が全て揃ってやっと一つの神となる、
神の御子としての各々の存在であったと言うこと、
だから愛し合うには、一つ一つの魂が元々神と言う存在に自分達が帰する事が出来る存在であったと認識する必要があり、
私達は神界に戻り、各々が神の御子として神性に帰属する事でしか、
各々の存在の価値や意義には気付けないのでは無いか。
人間としての不完全性で「仕方無いな」と諦める世界に生きて居るだけでは、
お互いに真の幸福を感じる事は出来ないのでは無いかと思う。
光であれ、闇であれ、どちらにどう存在して居ようとも、
常に神質を思い出して、光を忘れない心さえ掴んで居れば、
愛し合うことも、幸福になる事も、永遠に逃す事が無いのではないかなと思うのだ。
結果的にそれが、希望だけを見詰め、世界を希望一色に染める一歩一歩になって行くのではないかと思うのである。
諦めない信念を持つ事、即ち神との合致、神界への帰属を最後まで諦めなければ、
私達は全員が必ず救われて行けるのだと私は確信したのである。
私達が光になる日も、そう遠くない筈だ。
真心で頑張り続け、信頼し合え無くても諦めず、
常に心の愛に立ち返るまでの一人一人の格闘は、
必ずや最後には全員の笑顔を見る事だろう。
闇だって愛の裏返し、希望への過渡期なのだから、
どのポジションであろうと、慎重に走り進めるなら、
いつだって希望は沸き返る筈だ。
とにかく最後まで諦めない事、これだけで永遠は私達のものである。
神もそれを祝福するであろう。
ちょっとぶっ飛んだ話に感じたかも知れないが、
これが今までの私の心の中に沸き起こった神界(?)からのメッセージである。
終わり